『「読み」の整理学』 外山 滋比古 (著)

普段私たちがあまり意識することがあまりないと思われる、『読む』という行為について、いろいろと考えされれる本でした。

ただ何となく、本を読む。でもその読むということに、こんなにも深い意味があるのかということを、改めて考えさせられました。

この本の著者によると、読むという行為には、「既に分かっていることを読む」というものと、「知らないことを読む」ことの2つのタイプがあると言っています。

著者は、前者をアルファー読み、後者をベータ読み、という名前を付けて、本書の中で解説しています。

「知らないことを読む」、これは当然のことだと思うのかもしれない。私たちが本を読む理由の一つとして、新しい知識を得たいと思って、本を読むことがあるかと思います。

しかし、本当の意味で「知らないことを読む」というのは、とても労力がかかる作業でもあます。

難しい科学的な本や、経済の本など、難しい言葉や概念が多数出てくる本などを読むイメージをしてみるとわかりやすいのではないかと思います。

そして、私たちは知らず知らずのうちに、アルファー読みになっている。つまり、知っている範囲の中で読むことをしてしまっている。

その結果私たちは、自分で思っている以上に、「考える」ことをおろそかにしてしまっているのかもしれない。知っている世界の中で満足してしまい、未知を避けてしまっているのかもしれない。

本書を読んで、そのことを改めて考えさせられました。

「読み」と教育

本書の中で、たびたび登場してきた話が、昔の教育と今の教育の違いです。

昔と言っても、現代からはだいぶ昔の話で、本書の中でよく出てきたのは、漢文を読むことを教育としていた時代のことでした。

「読む」というのは、私たち人が学習するための最初の一歩ともいえるものなのではないでしょうか。

国語や外国語に限らず、数学や化学といった学問まで、すべての学びに共通する大切なスキルの一つなのではないか思っています。

また、論理を形成し、意味を考える、といったことも文章を読むことから学ぶものなのではないかと感じています。このことは、『「AI vs.教科書がよめない子供たち」 新井 紀子(著)』を読んだ時に感じた気づきでした。

そして、この学習のはじめに出てくる「読む」という作業からして、昔の教育と現代の教育は、全く考え方が違っているのではないかと、筆者は考えているようです。

漢文の読みは、字を読むことが先きで、意味はあとからついてくるというアプローチだったそうなのですが。

対して今の学習の読みには、「意味が理解できないものは、読めないという文章だ」という、読めないことは文章が悪い、といった捉え方をされる時があるようだと言っています。

本来「読み」というのは、理解できるものを「読む」だけではなく、理解できない文章を、いろいろ意味を考えながら、次第に理解できるようになっていくことにあるのではないだろうか、というのが筆者の意見です。

確かに、昔の百人一首などに出てくる和歌などを聞いても、今のほとんどの人は、「何を言っているのか意味がわかならない」と捉えることでしょう。私もその一人です。

単語としては、多少の苦戦はありますが、なるほどそういう意味かと分かることもあるのかもしれません。

しかしそれだけでは、その和歌の中にある、風合いや雰囲気、隠れた意味合いなどは、わかる人にしかわかりません。

これが、筆者のいう「ベータ読み」なのかなと思いました。

また、文章というのは、書いた人の意見というだけでなく、受け取る側の感じ方によっても意味が違ってくると説明していました。

その話には実感するところもあり、例えば、1度読んだ本を、時間をおいて再度読むと、また違った印象を持つことがあったりします。つまり、その時の自分にとっては、前回何気なくとらえていた文章が、その今の置かれた状況や知識の違い、時代背景などによって、また違った意味として捉えることがあるということです。

筆者が言うように、本というのは、書いた人のものではなく、読んだ人のものでもあり。書いた人と読む人の両者がいることによって、本に価値が生まれるんだと思いました。

よく学校の国語の授業やテストで、「この筆者は何を言いたいのでしょうか?」といった問題が出ることがありましたが。

本来の本を読むという行為には、「筆者が何を言いたいか」よりも、「読んだ自分が何を感じたか」ということが大切なのかもしれません。

「読む」ということの世界に、これほど深くて広い世界があるのかと、とても感慨深いものがありました。