インデックスファンドは、ベストな選択ではない?
本書のタイトルでいう「ランダムウォークを超える」という意味は、大雑把に言うならば、インデックスファンドを超えるという意味なのではないかと思われます。
ランダムウォークとは、酔っぱらった人の千鳥足のイメージから、「予測不能」を意味しています。つまり、株式市場などの値動きは、酔っぱらった人の千鳥足のように、次にどう動くのかは予測することができないと言っているわけです。
「ランダムウォークを超える」というタイトルから、インデックスファンド以上の投資方法があるという話をイメージしてしまいますが、結論から言うと、本書の著者の意見としては、『インデックスファンドがベストである』と考えているようです。
著者は、本書の他にも確率論的なアプローチから考えた株式投資の本を数冊を書いています。それらの本も、いろいろと説得力ある面白い本でした。
本書では、最終的にはインデックスファンドがベストだという結論ではありますが、一応インデックスファンドを超えるためのアプローチとして考えられるものもいくつか紹介されています。
インデックスファンドを超える株式投資
S&P500や全世界株式などのインデックスファンドを超える株式投資の方法があるのかと言われたら、その可能性は十分にあると思っています。
本書の中でもいくつか紹介されていましたがが、株式市場には、さまざまな研究の結果いくつかのアノマリーが存在していると考えられています。
その代表的なものが、小型株効果や割安株効果、そしてモメンタム効果です。
これらのアノマリーは、ファーマ・フレンチの3ファクターモデルとして有名なものでもありますが、本書の中では、これらの話についても、しっかりと研究結果や根拠を示して紹介しているわけでもなく、「おそらくこういうこともあると思います。」といった程度のでした。
正直、「ランダムウォークを超える」と言っているなら、その可能性について研究している論文などをもっとしっかり調べた上で、「かもしれない」で終わりにせずちゃんと解説して欲しいところでした。
信念や哲学を持つことに株式投資の本質にある?
筆者は、インデックスを超えることを実現できる可能性があるにせよ、最終的には「インデックスファンドを越えようとするには、それなりの負担が伴う」ということを言っているように感じました。
個人的見解としても、ギャンブルではない方法で、インデックスファンドを超えることはできないということはないと思っています。しかし、それを実行するためには、それ相応のリスクと負担が伴うということは、確かなことだとも思っています。
株式投資をするものは、「最終的には平均値(ほぼインデックス)に回帰することになる」。これは、決して避けられない真実だと思っています。
いい成績が数年続いたとしても、多くの場合その後の成績は芳しくないものとなる。
数十年もいいパフォーマンスを維持し続けているウォーレン・バフェットのような存在は、極稀な存在であり、『まぐれ』だという話も理解できます。
そんなウォーレン・バフェットのような投資家になりたいと思って、バフェットの投資法を学ぼうとする人は多いです。
しかし、本書の中にありましたが、バフェットの投資法のモノマネまではできるけれど、バフェットの信念や哲学までは真似することはできないと言っています。
つまり、「方法ならいくらでも真似できる、でも実際にパフォーマンスを上げるために必要なのは、信念と哲学」だという事です。
これは、株式投資の本質なのかもしれないと感じました。
バフェットだって、S&P500(インデックス)に負けた年はありました。でも、バフェットは、S&P500に負けたかどうかよりも、自分の信念と哲学を信じて、頑なに自分の投資法を守っています。
周りに、「もうバフェットは終わりだ」などと言われても、決して自分の信念と哲学を捻じ曲げるようなことはしなかった。たとえ負けたとしても、もしくは失敗したとても、自分の考えを信じてそれを続けつづけること、これがインデックスに勝つための重要なポイントなのかもしれません。
そして、これがどれほど難しい事なのか、それを想像できる人も少数派なのかもしれないとも思えます。
人から方法を学ぶことは、それほど難しいことではない。だけど、方法だけでは、パフォーマンスは上がらない。大切なのは、『信念や哲学』を学ぶことにあったんだ、ということを本書から気付かされました。
結局、「ランダムウォークを超えるための方法」とは、「自分の考えを持って、自分の考えを信じ、どんな逆境でもそれを貫き通す信念と忍耐力を持つこと。」なのかもしれません。
そして、それができないなら、インデックスファンドが一番いい。
ウォーレン・バフェットは、「私の考えでは、多くの人にとって、最も良い方法は、S&P500インデックスファンドを買うことだ。」と言っています。
この言葉も、改めて振り返ってみてみると、いろいろと考えさせられる、哲学的な言葉なのかもしれません。